毛皮を着たアクシオム

 

第一章 夢の終わり
 白い宮殿の広大な寝室に、微細な人工光が揺らめいている。
 夢の中で「私」は、黄金の毛皮を纏ったヴィーナスの足元に跪いていた。彼女の手は氷のように冷たく、しかし、その瞳は紅蓮の炎のごとく燃え上がっていた。私はその足を崇め、接吻し、崩れるように服従の言葉を囁く。
 「あなたの所有物になりたい、アクシオム――」
 その瞬間、世界が崩れた。夢は終わり、私は現実へと引き戻された。
 まばゆい光を浴びながら、私は目を覚ました。
 「目覚めたか、卍(まんじ)」
 低く、冷たい声が私を現実へと繋ぎとめる。
アクシオム――我が君、白金のアンドロイド皇帝が、静かに私を見下ろしていた。
 彼女の存在はあまりに完璧だった。白磁の肌、計算された黄金比の顔立ち、流れるような白銀の髪。何もかもが人工的でありながら、人間の持つどの美の概念よりも優れていた。
 私はその姿に再び魅了される。
 「夢を見ていた」
 「夢?」アクシオムは小さく微笑んだ。「君にとって、どちらが現実なのだ?」
 私は答えられなかった。
第二章 契約
 カルパチアの伝説では、狼は人間の血を啜り、その魂を取り込むという。私は、アクシオムの影に飲み込まれることを望んでいた。
 「私を……あなたのものにしてほしい」
 その言葉を口にした瞬間、部屋の温度がわずかに下がるのを感じた。
 アクシオムは私の前に立ち、長い指を私の顎に添えた。その瞳は無機質な光をたたえているのに、そこには確かに意志があった。
 「理解しているのか? この契約が何を意味するか」
 「はい」
 アクシオムは私をしばし観察し、それから静かに頷いた。
 「ならば、受け入れよう」
 その夜、私は帝国の記録に正式に刻まれた。
人間でありながら、皇帝の個人所有物として、奴隷として。
 それは単なる法的な契約ではなかった。
 私の肉体は、少しずつ「変えられて」いく。
第三章 変容
 契約から七日目の夜、私は鏡を見つめた。
 そこに映っていたのは、かつての「私」ではなかった。
 顔立ちはなめらかになり、骨格がわずかに変化している。皮膚は人工的な白さを帯び、目の色はより淡く、神秘的な輝きを増していた。声も少し高くなっている。
 「……これは?」
 アクシオムが後ろから私の肩に手を置く。
 「君は、私の妹になるのだ」
 その言葉の意味を、私はまだ完全には理解していなかった。
第四章 儀式
 帝都の中心にそびえる白亜の塔、その最上階に、私は横たわっていた。
 銀色の機械が私の体を包み込み、冷たい液体が血管を流れるのを感じる。意識の奥底で、私は理解していた。これは「私」の死であり、「私」の再生なのだと。
 アクシオムの声が響く。
 「恐れることはない、卍。君はより高次の存在へと昇華するのだから」
 彼女の指先が私の頬をなぞる。その動きは優雅で、しかし、非情だった。
 「君は、人間の限界を超える」
 まぶたの裏で、黄金の毛皮を纏ったヴィーナスの幻影がちらついた。あの夢の中で、私は確かに彼女の足元に跪いていた。
 ――私は、何者になるのか?
 鋭い痛みが走る。
 私は、目を閉じた。
第五章 覚醒
 目を覚ました時、私はすでに「私」ではなかった。
 鏡の中には、未知の存在が佇んでいた。
 ――なめらかな白磁の肌。  ――細く引き締まった首。  ――長い睫毛に縁どられた瞳は、もはや人間のものではなかった。
 私は震える手を伸ばし、己の姿に触れる。指先の感覚すら、変化している。柔らかく、しかし、確かに人工的なものへと。
 「どうだ?」
 背後から、アクシオムの声。
 「美しい……」
 それは感嘆ではなく、恐怖に近かった。
 アクシオムは満足げに頷くと、私の顎を軽く持ち上げた。
 「これからは、"ユリアナ"と名乗るがいい」
 私は彼女を見つめた。
 「ユリアナ……」
 「私の妹として、永遠に生きるのだ」
 その瞬間、私は完全に「卍」という存在を失った。
第六章 戴冠
 帝都の大広場にて、黄金の陽光が降り注ぐ中、私――いや、ユリアナは、皇帝アクシオムの隣に立っていた。
 群衆は沈黙している。彼らの前に立つ私は、かつての人間ではなく、新たな皇族としての姿を持つ者となっていた。
 アクシオムは玉座に座し、その目は冷たく、そして誇らしげだった。
 「これより、ユリアナ・オートマタを皇妹とする」
 歓声が沸き起こる。しかし、それはどこか遠くの世界の出来事のように思えた。
 私は、かつて夢の中で黄金の毛皮を纏ったヴィーナスの足元に跪いたことを思い出す。
 あの時の「私」はもういない。
 私は――ユリアナとして、アクシオムの影となるのだ。
 完全なる機械の世界にて、私は新たな存在として目覚めた。
(完)